終戦後の第三国人どもは本当に酷かった。軍の兵器を盗んで来たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、実力犯を中心にあらゆる悪事を重ねていた。 銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、渋谷は台湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いていた。戦勝国民は治外法権だったのである。だから食管法に限らず、戦勝国民には日本法を適用出来なかった( 朝鮮人も台湾人も戦勝国民ではない )。 服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、そこへ行けば食料に限らず物資は山ほどあった。日本人は買へなかったが。そうした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝国民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商売を行い、派手に稼いでいた。そりゃ儲かるだろう。取締を横目に犯罪のし放題。警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(さすがに銃撃戦は挑まなかった模様)。当時は物不足で、売る方は素人でも出来た。仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪うのだから。それで警察が黙認して捕まえないのだから、こりゃあ損のしようが無い。 警察が襲撃されることしきりで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず。上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ国税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった。( 録取者註:当時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三国人の襲来によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された渋谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との連絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚挙に暇[ いとま ]がなかった ) 東京東部( 中心部 )、北郊の荒川、古利根−中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった。当時、あの辺は畜力として農耕牛を使っていたが、深夜、不良朝鮮人が侵入して来て盗み出し、河原へひいて行って屠殺した。牛はモウと言って泣いたので皆気付いたが、銃砲刀剣で武装しているので追う訳には行かなかった。永年愛育し、慈しんで来た牛が悲しそうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出来なかった。そうして利根川水系流域一帯の牛は皆、不良朝鮮人に盗まれ、殺され、闇市で売られた。この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を売りに来たものだ。上流で屠殺した牛を、そのまま下流へ売りに来たのだろう。かくて南関東から、牛はいなくなった。 家畜相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つような勢で数多犯罪を重ねた。川崎、浜松、大阪、神戸などが酷かった。 その最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に対する集団暴行・傷害事件がある。 翁が軽井沢の静養先から帰京しようとして信越本線の汽車に乗っていたら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鉄道員を突き飛ばし押入って来て、俺達は戦勝国民だ、おまえら被支配者の敗戦国民が座って支配者様を立たせるとは生意気だ、この車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追い立てた。それで鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、たちまち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした。幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。 年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、いかに不出来な孫にせよ。孫共はこれを知らんのだろう。直後に総理大臣に成る程の大物でもかくのごとし。いわんや庶民におては土地も屋敷も物資も操も、奪い放題であった。闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、ことには、空襲や疎開で一時的に空いている土地が片端から強奪された。今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、皆、あの時奪った被災者の土地だ。 それでも警察は手が出せなかった。歴代首相大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察ごときに何が出来よう。ある日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、それ切り警察は消滅する。七百万の大軍を擁した彼の帝国陸海軍ですら、左様にして両総長、両大臣以下、自然廃官になった。まこと、敗戦は悲しからずや。 たまりかねた警察が密かにやくざに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した。最後の頼みの綱は連合国軍であったが、遂にはその憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った。 それでさすがに米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担当していた米第八軍司令官アイケルバーガー中将が、関東と言はず関西と言わず、はたまた北九州と言わず、不良朝鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機関銃を構へて不良朝鮮人共にピタリと狙いをつけ、ようやく鎮圧した。我々はその火器のきらめきを間近に見た。 この時、連合軍総司令官ダグラス・マックアーサー元帥の発した布告が、「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と言い声名で、これぞ「第三国人」なる語のおこりである。 ■朝鮮人犯罪の一例■ 信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。 昭和20年(1945年)の敗戦後に「朝鮮進駐軍」と称する朝鮮人が治外法権的な特権を有するがごとく振舞っていた。買出し列車を占拠し、座席に座っている日本人は女性年寄りでも構わず蹴散らされ、文句を言うと集団で袋叩きにしていた。鳩山一郎(後の総理大臣、鳩山前首相の祖父)も車中で朝鮮人に襲われ瀕死の重傷を負っている。 「お前等四等国民の日本人が我々二等国民である朝鮮進駐軍に指図するとは生意気な」台湾出身の蔡焜燦(さい こんさん)は昭和20年(1945年)12月に台湾へ帰還することになり引き揚げ列車に乗ると、朝鮮人が威張り散らしていたという。蔡焜燦氏は日本の軍服を着ていた。座席の下に置いていた新品の飯盒が朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると「なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い」と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。勝ち目はないので「すみません、私の記憶違いでした」と謝り、難を逃れるしかなかったのだ。佐世保にいくまでの30時間、朝鮮人たちは蔡焜燦氏を含め、日本人乗客をいびり続け、若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなどの横暴を続けていた。同氏は、はらわたが煮えくり返る思いで眺めていたという。 ■朝鮮進駐軍の非道横暴■ 朝鮮人の横暴はエスカレートし、闇市に進出し、旧軍の倉庫から奪った自動小銃で武装し始めた。こうなってくると警察もお手上げで軍隊は解散しており、阻止できる武力はなく、強盗、放火、土地の不法占拠、強姦とやりたい放題だった。GHQもある程度黙認していた。民族間を争わせてその上に君臨するという白人のデバイドアンドルール手法なのだ。 昭和21年10月に組織された在日朝鮮人連盟は極左暴力組織へと変貌していった。そして日本共産党の指導により労働争議への介入、交番焼き討ちなどのテロ行為を行っていく。昭和23年にはGHQの指示により文部省が在日朝鮮人にも教育基本法に基づく教育を指導したところ民族弾圧として大阪府庁、兵庫県庁に突入し、破壊行為を行い、翌年、暴力主義団体の指定をうけて解散となる。しかし、この残党は日本共産党に利用され、朝鮮戦争勃発後、昭和27年にに皇居前にデモ隊を突入させた。(約半数が朝鮮人) 朝鮮半島への軍事輸送拠点をデモ隊が襲う事件も起きている。朝鮮戦争勃発により国内の米軍を補完する目的で誕生した昭和25年の警察予備隊(昭和27年保安隊、後自衛隊)はこれらの共産党、および朝鮮人の動きとは無関係ではない。そして、これらの朝鮮人組織は現在、民団(在日本大韓民国民団)と総連(在日本朝鮮人総聯合会)に至っている。 そして海でも日本の漁船はキチガイ朝鮮人( バ韓国 )の警備艦艇によって拿捕・抑留され、その数は233隻2791人にも及ぶ。( ←射殺された漁民もいる ) 抑留生活は奴隷的扱いであり長い人で3年に及んだが、これらの事実は反日マスゴミによって封印され、朝鮮人とそれを利用する者たちにより「従軍慰安婦」「強制連行」が捏造されて、被害者ビジネス、差別ビジネスが展開されてきた。 |
↑日本から出て行けよ、キチガイ朝鮮人(在日と反日帰化人)! |