♪音楽専用スレI♪
【初めての方へ】
サモル
への挨拶無し等の常識外れな巡回投稿は、止めて下さい。
また、皆さんへの挨拶が 基本と考えています!
(専用スレの方は除く。)
御理解頂けない方の 貼り付けは御遠慮下さい!
[禁止事項]
・
宣伝
は、即書き込み禁止処分にします。
・
違法ファイル
・
無修正画像
の投稿は禁止。
また、露骨な
モザイク
や
ボカシ
が入っている画像は、修正済みでも不可。
・
ロリ
(
幼児
・
児童等
)の動画像や
児童ポルノ
(
18歳未満の画像
[
JS
・
JC
・
JK
])の動画像も投稿禁止です。
また、誤解を招く
JKコス
と思われる
(制服はもちろん体操着(ブルマ)、スクール水着も指します
)
の動画像も投稿禁止とさせて頂きます。
[理由]
最近サーバーポリスのパトロールが厳しい為です。
今まで黙認して削除して来ましたが、
禁止事項
を読んでいない様なのでスレ内にも
禁止事項
を表示することにしました。 それでも、改善されない場合は、
アク禁
にします。
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NP701KC
2023/10/19 21:18
渡月橋〜君 想ふ〜/倉木麻衣
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15
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NP701KC
2023/10/19 18:15
萬花鏡/佐井好子
954×970
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14
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NP701KC
2023/10/19 18:12
花ぬすびと/明日香
1080×1094
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13
]
NP701KC
2023/10/19 18:08
いじっぱり/高岡美智子
991×917
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12
]
NP701KC
2023/10/19 18:05
電話/稲葉喜美子
1080×1047
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11
]
NP701KC
2023/10/19 18:03
ファッシネイション/門あさ美
817×825
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10
]
NP701KC
2023/10/19 16:53
1985年4月21日発売
シャイニン・オン 君が哀しい/LOOK
哀愁漂うこの曲は青春時代を思い出します。
ハイトーンのボーカルが切なくて胸に響く…
秋が深まる今の時期に合う曲ですね。
730×730
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9
]
NP701KC
2023/10/18 21:04
>>8
北
さん
お集まりの皆さん
こんばんわぁ〜!
∩⌒。⌒)
本日もご支援ありがとうございます。
では、また宜しくぅ〜!
フジテレビ系全国ネット『しのぶ』(制作・東海テレビ)主題歌
忍すいかずら冬/因幡 晃
1080×784
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[
8
]
北
NP805SH
2023/10/18 10:26
サモルさん
皆様、御早う御座います
お疲れ様です
何時も御世話に成りまして有難う御座いますm(__)m
田辺昭知とザ・スパイダース
『バンバンバン』
『フリフリ』
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[
7
]
NP902KC
2023/10/18 10:16
ザ・フォーク・クルセダーズ
の
加藤和彦
が、当時は誰も思いつかなかったようなナンセンスでコミカルな曲『帰って来たヨッパライ』をつくったことによって、200万枚を越える記録的なヒットを放ったのは20歳のときである。
そこから遡ること2年半前、京都府立医科大学の学生だった
北山 修
は、雑誌『メンズ・グラブ』の読者投稿欄に掲載された、
加藤
からの呼び掛けに目を止めた。
「フォーク・コーラスを作ろう。当方バンジョーと12弦ギター有。フォークの好きな方連絡待つ」
北山
は、「これだ」 と思った。
しかも投稿主の住所を見ると、自宅から自転車で15分ほどの近距離だった。
そこですぐに自転車に乗ってその家を訪ねてみると、家の中からものすごく背の高い男が出てきた。
1965年の8月のことだった。
180センチある長身の
北山
よりもさらに高いその男は、口が重く人見知りする感じがしたという。
最初の出会いの第一印象を、
北山
はこう述べている。
彼は東京で高校時代を過ごし、父親の仕事の転勤で京都に引っ越してばかりでした。
アイビールックに身を包み、仏教系の龍谷大学に通っているという。
不思議な雰囲気を持つ彼は、まるで“東京から突然やってきたミュータント”といったように、私には印象っけられました。
加藤
に会って
北山
が何よりも驚かされたのは、京都ではなかなか目に出来ない珍しい楽器をたくさん持っているだけでなく、フォークソングについて幅広い知識を有していたことだった。
そして
北山
には育った環境がまったく異質だということもわかったという。
高校3年生の時には外国のフォークソング雑誌が書棚に並んでいて、それを熱心に読んでいたという話を聞いた
北山
は、“東京から突然やってきたミュータント”だと感じたと述べている。
英語の雑誌を高校生が読んでいること自体、
北山
には考えられないことだった。
親がそういう生活スタイルを許していたということが、ユニークな英才教育だったのではないかとも思ったそうだ。
しかし、自分にも通じるところもあったので、一緒にバントを組むことにした。
後に推測したことですが、彼が自分の高い身長を持て余していたようです。
体をうまくコントロールすることができない。
自分のサイズにあった服がない。
どこにいても目立つ。
精神と身体のバランスに急激な変化と狂いが訪れる青年期において、彼自身も所在なくていろいろな悩みを抱えていたようです。
私も同様で、青臭い性的コンプレックスや劣等感も一揃いあって、特に心身のまとまりの悪いところで、彼と気が合ったのかもしれません。
加藤
は
フォークル
での活動とは別に、友人の
松山 猛
と二人で楽しみながら、よく夜中に集まって歌をつくっていた。
やがて
フォークル
解散後のソロ活動を経て、
サディスティック・ミカ・バント
を結成してから、あらため二人はソングライティングのコンビを組むことになる。
しかし『帰ってきたヨッパライ』の原曲は、
加藤
が
松山
と二人でつくった楽曲のなかにあったものだった。
1967年に
フォークル
を解散を決めたとき、
北山
のアイデアで記念アルバムを作ることになった。
ただし予算は限られているので、ラジオの公開番組に出演した際に録音したテープを、放送局から借りてきて全体の半分はライヴ音源で埋めることにした。
スタジオでのレコーディングは経費が高くつくからという理由で、残り半分だけオリジナル曲をレコーディングするつもりだった。
ところがアルバムに入れる曲が足りなくなり、遊びでつくっついた『帰ってきたヨッパライ』の出番がやってくる。
そのユニークな歌詞のモチーフとなったのは、カントリーの『ヒルビリー天国』という楽曲だった。
ジミー・ロジャース
や
ハンク・ウィリアムス
、
ジョニー・ホートン
など亡くなった
ヒルビリー
のスターたちに会って、楽しいひとときを過ごしたがそれは夢だったという内容の歌詞だ。
松山
がそれを下敷きにして、死んでしまった男が天国から追い返される歌詞を書いた。
当時は急速なモータリゼーションの発達で、交通事故が多発して社会問題になっていたので時代背景に使ったのだ。
そこに
北山 修
が
ビートルズ
の『ア・ハード・デイズ・ナイト』の歌詞をお経にし、木魚をたたきながら唱えるなどのアイデアを加えて、ベーシックな曲の形が出来ていった。
加藤
自身は『帰ってきたヨッパライ』について、このように説明している。
「テープの早回しは、僕の思いつきだった。その頃は
ビートルズ
がインド狂いをしていた時代で、海外ではサイケデリック調の音楽が流行し始めていた。
僕はフォークばかりでなく、あらゆるジャンルのレコードを聴きあさっていたために、そういったエキセントリックな曲の影響を受け、独自の音を作りたいと思っていたのだが、アマチュアだから器材がない。
せめてということで、テープを早回ししてみたのである。
当時シンセサイザーがあったら、きっと使っていただろう」
レコーディングでは
北山 修
のアイデアによって、ちょっととぼけた口調の神様のセリフも吹き込まれた。
そして
ビートルズ
の『リボルバー』に入っていた 「グッド・デイ・サンシャイン」 のフレーズが、間奏でパロディ的にそのまま引用されている。
帰ってきたヨッパライ/ザ・フォーク・クルセダーズ
アマチュアだった
フォークル
は1967年10月1日、地元の京都で解散コンサートを開催し、同月25日に開催された第1回フォークキャンプコンサートに出演したのを最後に解散した。
ところがそれから1ヵ月後、解散記念につくったアルバム『ハレンチ (HARENCHI)』のなかから、『帰ってきたヨッパライ』が神戸のラジオ局のティレクターによって発見されて、東京にも飛び火してレコードが大ヒットを記録したのである。
それによって
加藤
は音楽家として生きていくことが、決定っけられたのである。
〈参考文献〉
きたやまおさむ
『コブのない駱駝』(岩波書店)
本文中に引用した
北山 修
氏の言葉も、同書からの引用です。
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